2011年12月9日
四日市(西条)~ 広島城下
ホテル7時出発して昨日の起点より7時30分スタート。広島駅近くのホテル前に4時30分着、今日も3つの峠を越えたいずれも快適な峠越えでありました。国道歩きが今日も殆ど無く助かる。何とか広島駅までくることができました、かなり足腰も披露しているようだ。明日は気分転換の休養日となります。
西条駅前 7時30分 スタート
広島城下 16時42分 着
51.999歩 31.19km 2.329kl
朝から晴れた素晴らしい天気です、四日市宿ももう少し散策したいが、先を急ぐので諦めます
西条駅前

駅前の広い道西側より街道スタート

写真が撮れていないが少し先左に、山陽鶴酒造 大正元年(1912)創業「黒松山陽鶴」と命名、「黒松の井戸」を所有。その街道を挟んだ向かいに太田邸:なまこ壁の蔵と町屋、左に兜造りの石井家が建っていたが移築されているという
駅前より200m程先で半尾川に架かる橋を渡ります

橋を渡った先の街道風景

街道は緩やかに左にカーブして再び右にカーブして西に進みます。そのカーブのところ右に 真光寺 左に賀茂輝酒造、右に賀茂郡御役所(代官所)跡があります

西條の街の東にある 浄土真宗本願寺派真光寺


賀茂輝酒造
創業明治二十八年(1895)、手造り旨さを守り続けている、「立身の井戸」があります。明るい茶色の屋根が美しい

少し先の信号交差点、左手前に宇治木医院があるところを横断、その先左の西条中学校の北側に沿って進みます

その先右に石碑の前で道は分岐するが、右の道を進みます。右に給食センター西条があります

その先で486号線に合流しますので、左側の歩道橋で渡ります

歩道橋から先の道は486号線を少し重複して、黄色い建物の辻を斜めに入ります

斜めに入っていくと左下に最近まで、江戸時代から昭和三十七年まで使っていた旧道の跡が数百m残っていたそうですが、危険なのか今は残っていなく確認できませんでした

すこし進んでいくと、右からの分岐した486号線が合流してまた暫く重複して進みます

合流するところの歩道橋から振り返りました前方は西条の市街地

重複した先を進むと、右にセブンイレブンを見て、左のトヨタカローラ広島の前、486号線と分岐する斜めの道に入ります。150m程迂回するように小川に沿って回り、再び486号線に合流

友待交差点の傍の左側の小川のところに前述の石垣が残っているようです

合流点の友待信号交差点を486号線と分岐して左(西)進むと、交差点東側に松屋があります

左に入ると左手に大きな駐車場があります

直ぐ先に 時友一里塚跡
案内説明板が立っています、黒瀬川に架かる時友橋の東詰に、街道両側に塚が復元されています。橋を渡って振り返ったところ、気が付かず橋を渡ってみたところです


時友橋を渡った左に小さな 祠

祠の先は坂を上ります、途中道路を横断します

緩やかな坂の右一帯に新しい住宅地が広がります

住宅地を暫く上っていくと、山中への道に変わります。飢坂(かつえざか)へ入ります


様相が一変に変わりました

飢坂峠
江戸時代この峠の西側(八本松側)を飢え坂といい、飢饉のときここで多くの人が飢えて力尽き亡くなったことからこの名前がついたと伝わる。また峠の東側(寺家側)では飢饉のとき炊き出しをして人々を救ったと伝えられています。
この峠の中の峠池はサイジョウコウホネの群生地で、峠で亡くなった人たちを慰めています。サイジョウコウホネは五月に水面に葉を浮かべ、水上に黄色い花を突き出して咲くそうです
飢饉で亡くなった人々を祀ったといわれる 祠と道標

中の峠池手前の説明板


餓坂峠 頂上の中池・上池・下池が景色を作っています

峠頂上の平坦な両側の池の間の街道、池には水も満々とあります

国道に近いのに長閑な風景です

峠の舗装が無くなり地道のさらに狭い林間の道に変わります

急な下り道の途中右に 旧山陽道飢坂の碑

下っていくと視界が開け八本松東地区に入ります

石畳道であったようで、ところどころその痕跡があります、ほぼ真っ直ぐの快適な道を一気に下る

やがて山道を下ると正面に建物が並んでいるところに出ます

下ってきたところを振り返る

舗装道に変わり真っ直ぐさらに進みます

正面のシャープ工場により、飢坂より下ってきた旧道が消失します。かつえ坂にこにこ公園にでます。

公園内の端に 日本国有鉄道八本松修場跡の石碑 山陽本線が電化されるまで、瀬野―八本松間を走る列車を後押しする機関車などの修理がこの材修場で行われていた。現在のシャープ工場

大きなシャープ工場で街道は消失したので、工場の北側に沿った道を進み迂回します

西北の端で切れたところで左に折れました

左に折れて公園の直線状の西に出ます右に池があり、池を背にして 須久茂池移築記念碑 が建っています

碑の先を右に折れて西へ進みます。左に下組集会所があります

街道左、東から参道に入る清水川神社の 鳥居があります

参道を入っていくと

清水川神社 旧飯田村の下組の鎮守社

神社の杜を左に見て大きく左にカーブして進みます

街道を進むと左に神社西からの参道入り口に 鳥居と石燈籠 がたっています 石燈籠は嘉永元年(1848)の銘

参道は北向きだったのを縁起の問題で、西向きに変えたという

暫く進んだ右手奥にこの地方唯一の 法華宗妙福寺

妙福寺の開創は古く南北朝時代の古刹をみて静かな八本松地区を進みます、妙福寺を過ぎるとこの八本松地区には、
四国八十八箇所巡りのミニ八本松八十八石仏巡りがあります小さなお地蔵さんや観音さま、お薬師さまが見守ってくれます。街道沿いにも何体かあります。左にあるこの石仏さまは六十一番

右に五十七番目の石仏 大正末期に地元の資産家が四国の八十八ヶ所にならって建てた。各石仏に寄贈者の名前が刻んでいる。工程は9㎞で山登りもあるという

その先右に、県立教育センターの左に川上西保育所その先左に、五十六番目の地蔵菩薩

この辺りの道幅は広くなっています、地蔵菩薩をすぎた左は八本松中学校。中学校を過ぎたところの交差点は、かつて弾薬の運ぶ道路として利用されていたので、弾丸道路と呼ばれています道は狭くなります

弾丸道路を横断した先小さな川を渡った左に、行き届いた美しい庭木と茅葺が素晴らしい

その先で小川を渡ると同時に地方道を斜めに横断します、その横断する左角に広島銀行

横断して狭い旧道を100m程進むと

486号線に出ます、旧道はそのまま真っ直ぐ進んでいたのですが、486号線の先、山陽本線に遮られ道は消失しています。486号線を右に折れて一つ目の八本松駅前信号交差点左に折れて、JR八本松駅を高架陸橋で北側に越えて迂回します

陸橋より八本松駅、八本松駅はJR山陽本線の中で最高地点の標高255mの駅です

陸橋を下って行って200m程先で旧道が消失した旧道が左からでてきていたところです

旧道がかつて通っていたであろう東南の山陽本線方向を見る

その先200m程で道は分岐しますので、左の道に入り左の沓掛第三踏切を渡ります

踏切を渡り石段を上って国道にでます、旅人はこの辺りで新しい草鞋に履き替え、険しい大山峠に臨んだといわれてます

国道よりいま来た道を振り返ったところです

国道2号線の溝迫信号交差点に出て西側の歩道橋で渡ります。歩道橋から見た西方向

歩道橋を渡る前に国道沿いに少し西へ、右にはミスターマックスがあります、その国道との間に
旧山陽道長尾一里塚跡の碑
溝迫交差点辺りにかつての一里塚があったそうです。街道左右の塚松は当時の飯田村と宗吉村とに分かれ、飯田村側は男松、宗吉村側が女松で、各々一本の幹から枝が四方に張って街道に張り出し男松と女松がことごとく女松の枝に重なり、和合の形として人々の評判になったとのことです

交差点に戻り歩道橋を渡り、100m程国道に沿って西に進み、国道を右に分け左の旧道に入ります

国道に北側のミスターマックス

マックスの西側、大都の看板の所を少し北に入ると、珍しい茅葺 浄土真宗永澤寺 があります
撮ったつもりが写っていません

八本松町宗吉集落の坂を上っていきます、すこし蛇行して上り、分岐から200m程で途中小川に架かる橋を渡る、さらに右から左に弓なりに蛇行しながら上っていくと、右に小川、左に小さな池の間を真っ直ぐ広い道を80m程進むと、右に道なりに左は83号線の道路の擁壁が続きます。
一つ目にやや広い新しい道で左に折れて、83号線の下のトンネルを潜り100m程坂を上ると、山の林に突き当たるので正面の表示に従って右に折れます。数十mで左の山道に上る旧道に出ます。



右に折れて10m程で左に入る登り口です、左角に西国街道(旧山陽道)大山峠の案内表示、いよいよ難所の峠道に入ります


暫く真っ直ぐの登り道は舗装がされています

登っていくと大山駅跡の標示が立っています。この辺りに古代延喜式の駅 家(うまや)大山駅があった



その先峠への道を登っていく、道は落ち葉で柔らかく快適だが、殆んど視界を見ることはできません。道は分岐します、正面に大山峠への表示板があります、左右どちらも同じ幅の道ですが、左は上り坂、右は平たんな道で右に進みます


暫く峠への道を進んでいきます

この峠を越える旧道も数年前までは、倒木や藪で荒れていて廃道化しつつあったそうで、山陽道を東広島市の観光ボランティアガイドの会、東広島郷土史研究会、そして地元の方々が努力して見事な山陽道を復活していただき、こうして歩けることに感謝しています。街道歩きを各地歩いていると、時々このように人々によって維持されている旧道を歩くことがありますが、本当に心から感謝しながら歩いています
やがて右に 旧山陽道大山峠の碑と説明板 大山峠

古代から近代初期まで長く官道として歴史に刻まれている、西から上ってくる坂を「代官おろし」とよび、どんな権力のある人でも駕籠から降りたという難所の道であった。
峠より西に数十m下ると大山清水があり、旅人の喉を潤した名高い清水であった。また江戸時代には憩亭のあったところで、参勤交代の大名が休憩したところでもあります。平素は村人が旅人に草鞋やいり豆を売っていたといわれています。説明板の横に「瀬野馬子唄発祥の地」瀬野馬子唄保存会により碑が建てられています。
峠から西へ下る道、峠から左(南)への 曽場ヶ城山跡(607.2m) への登山道が大内氏の支城跡、山頂から宮島や四国の連山が見えるという眺望

峠を振り返る

旧山陽道大山清水の碑
清水の湧きだし口があるが、今は飲めるほど流れていません

憩亭の跡

東側の上り口より、西側の方が道は代官おろしというだけあって厳しかったようです
しばらく代官おろしをくだります




峠より300m程下った右手に、大山刀鍛冶之墓の案内板がり、右手に少し上がて行くと

伝 大山山刀鍛冶の墓
大山刀鍛冶の祖は建武年間(1334~37)に守安という人がこの地に移り住んだのが初代というが、天正年間の最期の宗重を除いて実物の刀はいまだ発見されていない。宗重の刀は数振りが登録されおり、中には国・県の重要刀剣が登録されています。この付近に刀鍛冶の屋敷跡があったが、昭和20年の水害の際流失してしまっている。ここにある数基の五輪塔はかろうじて残り、大山刀鍛冶の墓と伝わる(説明文より)

小さな自然石を積んだだけですが、果たして誰が管理して今まで残っていたのでしょう

どんどん下っていきます


峠から下ること700m程の所左に

御迎え場跡
幕府巡検使迎える場所で群境に設けられていて、両方の村役人の引継ぎの場でもあった広島市安芸区瀬野に入ります

なおも下っていくと急に目の前が開け左手に
旧山陽道代官おろし跡

代官おろし跡碑の前からの上り坂

峠から約1.1㎞下ってきたようです

傍に:瀬野馬子唄発祥の地:大山峠入口(旧山陽道)と書かれた看板があります

馬子唄看板の前から峠への代官おろし道を振り返る、整備がされていいですね

下って行くと東広島バイパス道路の橋桁か工事中、また数年後には様相が変わってしまうだろう

左に公園を見ながら進みます

左に大元谷川が接近してその先で川に沿って右にカーブし、左から橋を渡って道が合流してくる。130m程真っ直ぐの道を川に沿って進みます

T字路となり左に折れ山陽本線の高架ガードを潜ります

ガードを潜るとすぐ国道2号線に出て、国道に重複して左に進みます。国道に清山バス停がある

国道の清山バス停から東の大山峠方向を見る

国道を重複して180m進んだところで左の旧道に入ります

300m程進んだ先から振り返ったところ

さらに200m程先で道は行き止まり左に折れて、山陽本線のガードを再び潜り南側に出ます。道なりに右(西)にカーブして再び国道2号線を横断します

ガードを潜り右に折れたその先左の一段高いところに
万葉歌碑
まきのはの しなふせのやま しぬばずて
われこえゆけば このはちりけむ

国道2号線を横断して、西側の細い旧道に入ります。国道2号線は大きく右にカーブしています

街道は右の瀬野川に沿って進みます

少し先で右の瀬野川に架かる久井原橋を渡り、左に瀬野川を沿い進みます。
旅人はこの辺りで大山峠越えの身支度をしたという

大山集落の川沿いの道を進む

道を少し行くと左手に二代目:三本の松があります

旧山陽道三本松(二代目)の標柱


その先、右の高台を山陽本線、左に瀬野川の間の旧道を大きく左にカーブして進む。振り返ったところ

右手民家の石垣の袂に 涼木(すずむき)一里塚跡の碑

上瀬野町の静かな街道を進んでいきます

やがて国道2号線に合流し少し重複しますが

中大山バス停の先ですぐまた右の旧道に入ります

国道から抜けると一気に静かな道の集落に変わります

そのすぐ先で小川に架かる橋を渡り右にカーブすると、清水第五踏切を渡り左に道なりに進みます

その先右手に数基の墓の一番左に 先祖大山鍛冶市左衛門之碑 と刻まれた石碑が建っている大山鍛冶の二代目以降が大山峠の屋敷からここに居を構えたと伝わる。
東京国立博物館に展示されている、天正年間(1573~92)に鍛造された宗重の名刀もここで造られたと伝わります。

下大山集会所を右に見て、下大山集落を進むとこの辺り新しく建て替えられているが、大きな家が散在します

清水第七踏切で山陽本線を渡り南側に出ます

国道手前で右に折れて、左に国道を見ながら下っていきます

下っていった右に、白壁の美しい旧家の建物かつているのが、村で唯一のお医者さんのお宅であったそうです

存在感があります

坂を下ると左に平行してきた、信号のない国道を注意しながら横断します。その手前右に
真宗大谷派八世以山龍善寺 治安二年(1022)創建の古刹、立派な鐘楼門を有しています


境内に立つ保存樹のイチョウ、高さ21m

信号・横断歩道がないので車に注意して国道2号線を横断します
一貫田:間の宿 に入ります、街道は横断して右にカーブしながら進むが、すぐ右に広島上瀬野郵便局があります

広島藩油御用所跡
その前街道を挟んだ瀬野川の川岸を見ると、石垣が綺麗に積まれています、その下を水路が流れています、かつての水路の長さは200m程あったといいます。1790年頃からこの水と馬を利用して油を絞っていたそうです


一貫田の街並み、一貫田は海田宿と四日市宿との間の間の宿として栄え、参勤交代等の小休所が置かれ茶店が並んでいたという

その先、宿内の交差点で右はすぐ国道2号線の一貫田信号交差点に出ます。左は熊野町・呉への道、その交差点の西南角に大正時代の 道標 「右ハ海田市・廣島 左ハ熊野跡呉 方面」


交差点を横断したすぐ左に昭和三十年の 森永ヒ素事件で犠牲になった当時幼かった健康優良児の子の碑。沢山の人が犠牲になった大変不幸な事件であったのを憶えている

交差点を横断したすぐ左に昭和三十年の森永ヒ素事件で犠牲になった当時幼かった健康優良児の子の碑。沢山の人が犠牲になった大変不幸な事件であったのを憶えている

すぐ先、左路地奥に句碑俳人 種田山頭火と瀬野昭和8年9月一貫田の街の本業豆腐屋さんの宿に泊まった

宿の西の分岐で右に曲がります、分岐から振り返ったところ

右に折れて街並みを進むと

やがて国道2号線の下一貫田信号交差点を横断して左斜め道に入ります

交差点を横断、間の宿一貫田を抜けます

130m程先で山陽本線の中原第一踏切を渡り左へ

山陽線を左に沿いながら緩やかに蛇行しながら暫く進みます

辰の口第一踏切に出ますので踏切を左に、国道2号線の浦野小学校前信号に出ます

信号を右に折れて国道を進みますが、往時の山陽道は踏切を渡らず線路の北側に沿って暫く進んでいたようですが、いまは山陽本線建設に伴い痕跡はありません

国道を250m程重複して歩くと、北からの川が国道を横断して、国道南(左)側の瀬野川に合流しています。川の西側に歩道橋があります。歩道橋の手前で道は分岐しています。左への道は瀬野川を橋で渡り南へ行くが、街道は瀬野川を渡らず、歩道橋南袂と瀬野川の間の旧道を進みますが、歩道橋の傍で川に架かる橋を渡り国道を右に見て進みます

川沿いの集落に入ります250m程進みますと

右から新道の道路が国道を越えてきて、山陽道の右に接し100m程先で、右にカーブして国道2号線に合流しています。山陽道は国道に上らず、左の集落内の旧道です

右の取付道路の角に、明治廿四年の銘 道標 「右ハ国道 左は県道」

その先300m程西に進むと、榎ノ山川に出ますその西岸に
道標と落合の一里塚跡碑 「右ハ四日市 左ハ志わ みち」
志わは、川沿いに北に進み榎ノ山峠の山越えをして志和村(現志和町)に至る往還
落合の一里塚跡もう少し山陽道の東にあったようです



榎ノ山川に架かる橋を渡り、ミラーの手前を左に少し折れて進む。右の川沿いの道は志和町への往還

榎ノ山川から150m程西に進んだ十字路を右に折れて2号線を越えたすぐ突当りが山陽本線の瀬野駅です

右に瀬野駅が見えます。その北側に高台の住宅へのスカイレールというリニアモーターケーブルカーがついています。(高低差160m)高台の住宅地開発を利用したアイデアで面白いですね。1999年鉄道のローレル賞を受賞しています。

瀬野駅前の時間は12時15分、目標予定が13時だったので少し早めについた。珍しく昼食食べようかと思ったが、街道筋に見当たらずやはり食べずに先を進みます。やがて瀬野の街並みを抜けると国道の瀬野大橋南詰信号交差点を渡ります。

国道を横断した左に安芸山陽道の標識がありますので左斜めに進みます。すぐ先で山陽本線のガードを潜ります

ガード潜り左へカーブします。300m程先で右に入る道の角に、沢山の自販機を設置しているお好み焼き屋さんの前を真っ直ぐ、左の山陽線に沿って進みます

中野町に入り右に 常夜灯 祇園神社への細い参道があります

先を進む

中野7丁目の街並み、左に大きな保存樹タラヨウの木、高さ約12.5m。ここから拝礼しておきます

左に瀬野川、山陽本線が接近します

接近したところで分岐があります、どちらが旧道か分かりませんが、左の線路沿いの細い道を進みました

左、山陽本線・瀬野川・国道2号線の対岸の山裾に大きな樹木に囲まれた
切幡神社 が遠望できる ケヤキとシイの林、右の神社の背後には高城山(496.1m)が遠望できます


中野六丁目の街道沿いの見事な石垣の間の旧道

石垣の中に組み込まれた小さな 石仏

右の高台に広島国際学院大学の校舎が見えます

右に広島国際学院大学があります。大学の門の前に 道祖神

暫く街道を道なりに進んでいきます、左に山陽本線の中野東駅があります

中野東駅の前後の山陽道は道幅が広くなっています駅前から山陽道を振り返ったところ

中野東駅前から350m程進みます右に 愛宕神社

さらに350m程進むと左に山陽本線が接近します、中野地区の山陽道の民家は新しく建て替えられています。国道2号線を歩かなく車も少ないので快適です、とにかくこの筋は早足で進みます

線路より少し斜め右に離れた先、左にNTT・右にAコープの間を進み、その先右にセブンイレブンがある数十m先の右奥に 大年神社

再び左斜めに方向を変えて山陽本線に接近します。中野3丁目14の右民家のブロック塀の横に
旧山陽道鳥上の一里塚跡の碑


さらにその先、右手の高台に 矢口神社
この地区はかつて一村一村に鎮守社があったようで多い


矢口神社参道入口から100m余り先右に 浄土真宗本願寺派霊東山専念寺 江戸時代の創建



石積みは穴太積みの石垣

左に広島中野郵便局があります

すぐ先交差点の少し左(南)側に入ると安芸中野駅があります

交差点を右(北)に坂を上っていくと 蓮華寺、背後には蓮華寺山(374m)があります

蓮華寺への道

中野2丁目を300m程進むと、山陽本線に出て京田第三踏切を渡ります。踏切の先右斜めに100m進む、左側には中電工、その奥に久保田鉄工所が見えます。瀬野川の西岸に出て、左からの道が合流して、瀬野川の西岸を南に進む。瀬野川に架かる貫道橋は渡りません

江戸時代の山陽道に植えられた街道松、見事に並んでいたそうですが、めっきり本数が減ったそうです。広島藩主の出迎え松、家来や家族がここまで迎えに来た

旧山陽道中野砂走り出迎の松碑

出迎の松から貫道橋方向を振り返る

松並木が切れる辺りで、右手の下りていきます

右に下りるところからもう一度振り返ったところ

海田町砂走の町並みを進みます

畑賀川に架かる砂走橋にでます、その手前右に 旧山陽道蓮華寺登口跡碑と砂走橋跡の石柱

畑賀川沿いに右(北)に上っていくと蓮華寺山へ街道は橋を渡り真っ直ぐ西南に進みます

その先で山陽新幹線の高架を潜りますとすぐ右に山陽本線が接近

すぐ先で、右に接近した山陽本線の大力第一踏切を渡り、山陽本線の西側に出ます。海田町畝に入り、畝の町並みを進むと右にちびっこ会館、その先右奥に海田町ふるさと館があります

小川に架かる橋の手前右に 春日神社の参道があります

参道入口の向かい、街道を挟んだ左に文化七年の大きな 常夜灯

小川沿い近くに建つ海田町ふるさと館、海田の歴史がよくわかる資料館

ふるさと館の左奥に古墳公園があります公園内の クスノキの巨木 県の天然記念物海田観音免のクスノキ樹高約30m、根回り5.9m、分岐幹囲6.6m、枝張り北東19.5m・北西17m・南西10m・南東14.5m。圧倒される立派な木

古墳時代の代表的な建物である 竪穴式住居 の復元されたもの。海田町内には横穴式古墳である畝観音免古墳や西谷古墳が発掘されています。町内にはまだ住居跡は見つかっていないが住居跡を想像復元したものです。住居内に入って見ると想像以上に中の空間が広いものでした

畝観音免第一号古墳
わずかに石室奥壁部が残るのみだが、横穴式石室の円墳、7世紀前半の豪族の墓

畝観音免第二号古墳

長い綺麗な白壁が続く旧家

街道沿い右手には石組、この辺りは多い

畝の静かな街並みを進みます。街道右に山敏会館、街道向かい左に畝会館がありますすこし進んだ先、右奥に畝保育所があります

街道松跡の説明板 その付近にかつての街道松並木の名残の松が残っていたが昭和61年松くい虫による被害で枯死したそうです。場所がわかりません


その先進むと石原地区に入ります、右手に 常本谷天満宮への参道と道標

電柱の袂の 道標 「常本天神近道」

石碑 参道左側に永山信楽墓と刻まれている参道途中にある江戸期の剣術家。
その先を進むと左に、東海田郵便局があります

その前を右に少しはいったところに 胡神社と荒神社 が背中合わせに建っています

この辺りから【海田宿】
広島宿まで7.9㎞です。海に臨む海田は、古くから海陸の要衝として発展してきた。江戸時代には 本陣・脇本陣が置かれました
海田町成本の街並みを振り返ったところ

海田町上市へ入ります。この辺りの街筋はジグザグになって、大名行列が早く見えなくなるように工夫、また民家もその名残か家並みは斜めの土地割りになっているのは

心持斜めの土地割の旧家

中店地区に入ると左に海田町役場がある向かい、街道右に入ると 熊野神社

熊野神社のすぐ先路地を右に入ると路地の入り口に 御茶屋跡(本陣)の案内板

路地を進むと何もないが、今は広い駐車場が
御茶屋跡(本陣)
元々は、藩主の公用宿泊施設(御茶屋)であったが、本陣の役割を果たすようになった。広島藩内には九ヶ所の御茶屋があり(可部・吉田・八木・海田・西条・本郷・吉舎・甲山・尾道)海田の御茶屋は、770坪もの敷地があり、四番目の規模であったそうです。

街道に戻ってすぐ十字路右に 海田恵比須神社

恵比須神社の十字路を少し進んだ右手に龍祠保育園があり、街道を挟んだ向かい(左)に海田公民館がある敷地は、かつての 脇本陣跡 があった。また 郡役所 がここに置かれていました
すぐ先右手に 真宗寺

そのすぐ先左手に、江戸中期の建物で街道を往来する諸大名も泊ったと伝わる。
千葉家住宅(県重文) 脇本陣の役割も果たした

母屋と書院からなり、江戸時代後半期の書院造風の建築様式を残す数少ない建物。千葉家は幕府の公文書や荷物などの運送役や広島藩の宿送り役などをつとめ、元禄年間(1688~1704)からは参勤交代などの脇本陣としての役割も果たしていました。海田公民館付近の本陣・脇本陣はすでになく遺構はわかっていないが、千葉家住宅が残り貴重な遺産であります

千葉家住宅より少し行った右に 浄土真宗本願寺派十王山雲林院明顕寺
境内には1866年江戸末期幕府の長州征討に伴い、大竹小瀬川の戦いで亡くなった、越後高田藩士34名の合塔墓所がある

中には入れないようです境内の 銅製梵鐘

明顕寺の前から梵鐘及び宿内の街並みを振り返る

また寺の向かいには、江戸時代からの商家三宅家の旧家 が残ります

すぐ先右に長い石段があります 稲荷神社や大師寺への道

稲荷神社からさらに坂を上っていくと 厄除けの寺 高野山真言宗大師寺
登り口右袂に 道標 「弘法大師□□道」海田のお大師さんとして親しまれています
山腹には鮮やかな朱の柱で建つ毘沙門天主本堂を持つ 大師堂があるそうで何故ここまで来て稲荷神社や大師堂に行かなかったのか残念

元の石段の下の街道に戻り、稲荷町から新町に入ります。130m程先の十字路に出ますとその右手前角に
旧山陽道海田市の一里塚跡碑 横には 日蓮宗清正寺の石柱 広島城下まで2里

細い道の少し北を見ると、清正寺の大屋根 が見えます

一里塚あとの街道に戻ります。一里塚碑のある十字路を左(南)に入る塚の小路を行くと突き当たります、その向かいに新町の 胡神社と荒神社がお互い向かい合って仲良く鎮座しているが、前述の成木は背中合わせであった。荒神社は火の神様、胡神社は商売の神様です。度々大火に見舞われていた宿場だが荒神社を祀ってからは無くなったと伝わります。
JR海田市駅は神社より南にあります。この辺りに来て少し疲れたのか、見たかった史跡を見落とすところが多くなってきています
再び十字路の街道に戻り250m程進み小川に架かる橋を渡ります。橋を渡ると海田町新町から安芸区船越に入ります。この辺りが宿の西端の様です。小川を渡り150m程先で広い道路の交差点を横断しますが、その右手前に御殿のような立派な家が見えます

横断した先150m程先右に入ると 恵比須神社

恵比須神社の西側に光明寺の大屋根が見えます 街道からの 光明寺への参道

少し進むと十字路に出ます、左角に広島船越郵便局があり、右斜めの北西への旧道を進みます

後で資料見て分かったのですが、前述の光明寺・恵比須神社の少し西で十字路があり、そこを右に折れて光明寺の西側を通り西に方向を変えて300㎜程進むとここの常夜灯に出てきます。資料では旧西国街道(山陽道)と記載され、今歩いてきた道は新西国街道となっています。
ハッキリわかりませんが、往時は瀬戸内の海が今よりももっと内陸に寄せていたことを思うと、西国街道も徐々に内陸から海辺に街道が変わっていったと理解できます
合流点に建っている大きな 常夜灯 常夜灯は北側にある岩滝山(192m)の山腹にある岩滝神社への常夜灯の道標。岩滝山の山麓には、前述の恵比須神社・光明寺、岩滝神社・豊稔寺、稲荷神社・正傳寺・黄幡社、水谷神社が回りを散在しています

常夜灯の先、船越の住宅地の坂道を上り、右に岩滝山を見ながら船越峠への旧道を進みます

常夜灯の分岐から850m程坂を上っていきます、住宅地の中ですから峠への道という感じはしません。峠までは旧道の道幅を踏襲しているそうです 船越峠 です、今は峠という感じはしません

船越峠を峠を振り返ったところ、この先は暫く安芸郡府中町です広い道がついて峠という感じはないです

船越峠のすぐ先は一気に様相も変わり、道幅も中央分離帯のある道となります。200m程進むと府中永田バス停の手前を左斜めに入る旧道があります

左の旧道に入ってすぐ左に 船越地蔵(大師堂)

分岐から200m程で右斜めに折れて50m程で、再び右からの151号線の柳ケ丘西口信号交差点に合流して重複します

合流して右に池を見ながら浜田3信号交差点を越えます、右に山陽新幹線の高架が接近してきます新幹線の高架が接近したところで、左斜めに入る旧道があります

200m程進んだ先で、左角にスパークがあるところを右に折れ再び151号線に出て、数十m左に折れると永田信号交差点に出ますので、交差点を右に折れて151号線と山陽新幹線の高架を潜ります

高架を潜ると北への府中古道と左斜め(西北)に道は分岐しますので、左斜めの旧道を進みます。300m程浜田本町を進みます

やがて正面から側溝が東に向きを変える十字路の角にでますので、街道は左(西)に折れます

左に折れたすぐの右に 恵比須神社 があります

神社のすぐ先左、民家の塀に組み込まれた 地蔵堂

100m程進むと信号交差点を横断した右角にパチンコ店があります。その先西への大通地区を真っ直ぐ暫く進みます

広い道路の交差点を横断して100m程進むと正面に山陽新幹線の近くで右斜めに折れます

すぐの府中大橋東詰信号交差点に出ます。府中大川に架かる府中大橋を渡ります

橋を渡る右堤防上に 道標 「多家神社参詣道」 多家神社は北東に1㎞程行ったところにあります

府中大橋を渡ると再び広島市東区に入ります

府中大橋西詰から西へあけぼの通りを進む

すぐ先で広島高速2号線の高架を潜ります

高架の先、矢賀新町5丁目信号交差点を越えた左に 廣隆寺

矢賀新町3丁目付近に 矢賀一里塚 があったが痕跡は何もない

JR芸備線のガードを潜りますが、高架下の地下の道を進みます

高架の先に出ると曙町5丁目東信号交差点に出て、あけぼの通りの広い道の一筋右の西北に進む分岐道に入る。すぐ右に田中歯科医院があります

東区東山町の町並み

右に 浄土真宗本願寺派法明寺

爆心地から東北に約3360m離れていたこの地でも爆風で大きな被害を受けた
浄土真宗尾長説教所の西側が焼け、東側が焼け残った写真

さらに進んでいくとT字路に出ます、街道は左に折れます

T字路を右に折れて【寄り道】します右に坂を上っていくと
真言宗才蔵寺前の お堂

慶長五年(1600)徳川軍の戦国大名福島正則の武将として関ヶ原の合戦で活躍した可児歳三を祀った寺です。
また寺には、正則が改易になったとき戦いに備えて食料を集めたという故事にちなんだミソ地蔵がある。この地蔵の願いにミソをのせて祈願をすると、希望校に合格すると何時ともなく伝わり、受験時期になると賑わいを見せる

真言宗才蔵寺

可児才蔵の像

ミソ地蔵

可児才蔵は一匹狼の武将として沢山の戦国武将に仕えたが最後は福島正則に仕え広島で生涯を終える。逸話には戦いの中で敵の首を獲り、首に笹を目印に残していったという伝えがあります

可児才蔵の墓

T字路に戻り尾長東を西に進みます

街道松の名残:三本松
尾長西、三本松バス停の傍に文禄二年(1593)秀吉が名護屋からの帰り山陽道に並木松を植えた伝説があり街道松として古株の三本が残っていた「二葉の里 歴史の散歩道」の案内板が立っています

三本松のそばにある 祠

すぐ先右の路地の入口 我羅我羅橋の案内板


古川が流れていた路地


その先で広い道路の信号交差点を横断します。交差点を横断した右角に愛宕郵便局があります

交差点を渡ると愛宕町に入りすぐ右に 愛宕神社

愛宕町を進みます

やがて山陽新幹線・芸備線・山陽本線の平行した高架を潜ります

すこし進むと猿猴橋町信号交差点を横断します

さらにすぐ先の広電本線が交差する猿猴橋町4番信号交差点を横断します

すぐ先の猿猴川に架かる猿猴橋を渡ることに成ります

猿猴橋東詰より見る立派な橋です


橋を渡ると信号交差点に出ます、正面はホテルセンチュリー21広島があり、道が遮られていますので、右に折れて駅前大橋南詰の広い交差点に出て横断して左に折れます

大通りに面して右手に広島グランドインテリジェントホテルがあります、ホテルの前を通り過ぎてすぐ先右斜めに入る道が、猿猴橋寄りの延長線上の道です


本日はここで終了です、16時42分、31.19㎞とよく歩きました。
もう少し時間がありますが、実はこの横の広島グランドインテリジェントホテルで今晩と明日の宿泊と2泊予定しているのでキリがいいところで終わりました。
尾道をでて4日間歩き続けたところで、明日は広島市内や宮島を回りたいので一日休養日に宛てました。


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